自分の悪癖とワーニャ伯父さん

私には悪癖がある。常に特定の人の事を想い、心配し、苦しんでいるということだ。
男女年齢職業関係なく、その時ハマってしまった人を、年単位で想い続ける。
私は自分のこの体質を、ただのファン気質なんだと思っていた。人より少しだけ執着心が強いだけなのだと。
しかし世の中のファンというのは、「好きすぎてつらい」と泣くことはあっても、基本的にポジティブにその人を応援し、魅力に心酔しているし、それがクソリプであろうとも、相手に対して何らかの形で向き合っている。それに比べ私のしていることは、多少の消費をするくらいで、あとは分刻みでのエゴサーチ(手癖になっている)と、常にいらぬ心配をし、ただただ悶々としているだけだ。私のしていることはファンではない。
じゃあなんだ、と考えると、結局は現実からの逃避なのだと思う。
自己愛が強すぎて、自分の事を現実として考えるのが怖いのだ。考え事のリソースを関係ないことで埋めておけば、自分のことを後回しにできる。ついでに彼らの成功体験の喜びを、さも自分が得たかのようにかすめ取ることだってできる。だから対象はなんだっていいのだ、自分が乗り移るきっかけさえあれば。
チェーホフの戯曲『ワーニャ伯父さん』でいまいち分からなかったのが、ワーニャのセレブリャコーフへの思い入れだった。セレブリャコーフははじめから(観客の知りうる範囲では)偏屈な爺さんだし、エレーナの夫でもあるし、ワーニャは彼の生活と自分の生活を比べて、彼のことがとうに嫌いになっていても仕方がないと思うのだ。しかしワーニャは長い間仕送りをし、家系の誇りだとも思っていたように描かれていて、それが不思議でならなかった。
ワーニャは私と同じように、セレブリャコーフに対して対峙するのではなく、ずっと(逃避先として)彼に乗り移っていたのか、と思った。だから、セレブリャコーフが「現実」として存在することそのものがワーニャにとってつらいのだ。
自分がエレーナを愛しているのではなく、エレーナと愛し合っていないと自分の夢想に辻褄が合わないのだ。そして最終的に、現実のセレブリャコーフがワーニャの夢想を打ち砕く。
 
ワーニャはようやく、自分の現実を自分のこととして生きなければいけないことを理解する。
果てしない日々を生きていきましょうね、とソーニャは言う。
 
私も自分の現実を自分のこととして、生きなればならないとは思う。
けれど、100年前のロシアの田舎とは違い、今はあらゆる乗り移り先が用意されている。エンターテイメントが、スポーツが、インターネットが、宗教が。購入したPCのメーカーにだって乗り移ることができる。うまく乗りこなせばいいのだろうけれど、今の私にはとてもとても難しい。