占いとFF8

2年ほど前から、占い(主に西洋占星術)の事をぼんやり勉強している。勉強と言っても人を占う訳ではなく、占星術西洋文化への影響とか、科学への発展とか、占いにまつわるあれやこれやを知るのが楽しいのだ。

 

そして根がオタクなもので、これがあの作品のモチーフか〜と気がつくのも楽しい。FF8がさほど好きじゃなかったのだけど、占いというかネオプラトニズムというかルネサンスというか、あのへんへの憧れが詰まっていることに気がつき、親しみを持てるようになった。

 

しかし、FF8のあれはもしや…と思って検索しても、あまりそういう情報に出会えないので、あれ?となっている。時代が古くリメイクもあまり出ていないので、コアな情報が埋もれてるのかもしれない。2chのログとか調べれば出てくるのかな。

同じ気持ちの人間がどこかにいることを信じて、以下にまとめてみた。

占いに詳しい人教えてください〜〜!

 

  • 1日遅れで乙女座のスコールさんは獅子座になるためには時間を遡る(もしくは圧縮する)必要がある
  • リノアさんの魚座は獅子座のオポジション
  • フィッシャーマンズホライズンのホライズンは、大陸横断鉄道をホロスコープの地平線に例えている
  • FF8の大きなモチーフはタロットの運命の輪。(でも1つの輪というより2つの輪が交差したイメージが強い。。。)
  • セーブポイント、風景の中にありとあらゆる二重円が。もちろん2組の指輪も。
  • また、アルティミシア城に繋がれた鎖も運命の輪が続いていることを表現しているのか。城の番人には、FFのモンスターとしては珍しいスフィンクスが。ウェイト版タロットの運命の輪にはスフィンクスがいる。
  • 同じくウェイト版タロットの「月」は、月の涙を表しているのだろうか?ルナティックパンドラは塔?でもザリガニと犬がいない…。
  • ウェイト版タロットの「力」は8番のカードで、頭に∞をつけた乙女が獅子の口元を押さえている絵である
  • 占いがカードゲームになったというのはタロットと逆(タロットはカードゲームが占いになった)
  • CC団は黄金の夜明け団(GD)が元?
  • 互いの運命の輪が交わるときがジャンクション?
  • ラグナの名前の由来は、ラグナロクとインド占星術アセンダントを表すラグナのダブルミーニング

 

特にタロットには詳しくないので誰か〜

キリンの広告考

キリンの広告に、自分でもびっくりする程怒ってしまい、それが何故かを考えていたのだけど、ものすごく単純にイラストの女性全員頭が悪そうだからだと思う。紅茶を飲んでるだけで、向こうからそんなあなたはどのタイプの馬鹿?と言われて嬉しい人は居まい。

 

あと、個人的に「自分以外の人間の欠点が気になってたまらない人」との相性が、禁止の立て札vsスナフキン並みに悪いので、自分をさておいて人の欠点を描くことそのものに反感を持ってしまう。昔よくあった非モテを更生する記事にも怒っていたな。どうしてそんなに人の事が気になるのだ、ほっといてくださいよ…。

 

そういえば女性誌の単色カラーのページでも、あのtweetのような記事ってあるけど、本文でちゃんと自虐までオチてて補足できてるんだよね。女性誌のネタコーナーっぽく扱いたいのであれば、そこまで模倣する必要がありましたね。まあ、その文脈が通じるかって言われたら2018年にもなって厳しいとは思うけど。

 

もう一つ。自虐を共感に繋げるには、どうしてもある程度シチュエーションの共有が必要だと思う。「いるいる」から「あるある」に変換しないと共感は産まれない。

肝心のこの部分が、箇条書きの羅列では圧倒的に伝わらない。例えば箇条書きの項目を3つくらいに絞って、各項目に1つずつミニイラストを描き、彼女たちの生きづらさや誠実さも表現すれば共感を産むきっかけになるし、各飲料の持つ特徴との繋がりも見えてくるかもしれない。ありがちではあるけど取り下げる事もなくなると思う。というかあのイラストって打ち合わせで使うものなんじゃないのかな…。立ち姿と箇条書きだけて。

 

とりとめなく書いたので文章が繋がってないけどすっきりしたので満足しました。おやすみなさい。

漢詩の事をもっと知りたい

(自分の中で)今年一番盛り上がっているのが漢詩だ。図書館でふと手に取った漢詩の入門書がとても楽しく、以来いろんな本を読み漁っている。

といっても本当に初心者なので、読み方といっても解説を頼りにわずかな想像力を働かせるしかないのだけど、それでも杜甫の優しさ、あまりの真っ当さに涙し、李白の拭いきれない孤独に共感し、結局陶淵明なんだよなとへらへら、しみじみしてしまう。社会や組織に疲れた心に、実にスッと入ってくるのだ。30代よ、漢詩は良いぞ〜。

 

私が最初に手に取ったのが、宇野直人先生と江原正士さんの「漢詩を読む①〜④」「李白 巨大なる野放図」「杜甫 偉大なる憂鬱」の6冊。元はNHKラジオ講座なので、インタビュー形式でとても分かりやすい。このシリーズで大まかな時代の流れや詩人について学んだら、興味を持った詩人についての本を読んでいけばいいと思う。

 

自分の悪癖とワーニャ伯父さん

私には悪癖がある。常に特定の人の事を想い、心配し、苦しんでいるということだ。
男女年齢職業関係なく、その時ハマってしまった人を、年単位で想い続ける。
私は自分のこの体質を、ただのファン気質なんだと思っていた。人より少しだけ執着心が強いだけなのだと。
しかし世の中のファンというのは、「好きすぎてつらい」と泣くことはあっても、基本的にポジティブにその人を応援し、魅力に心酔しているし、それがクソリプであろうとも、相手に対して何らかの形で向き合っている。それに比べ私のしていることは、多少の消費をするくらいで、あとは分刻みでのエゴサーチ(手癖になっている)と、常にいらぬ心配をし、ただただ悶々としているだけだ。私のしていることはファンではない。
じゃあなんだ、と考えると、結局は現実からの逃避なのだと思う。
自己愛が強すぎて、自分の事を現実として考えるのが怖いのだ。考え事のリソースを関係ないことで埋めておけば、自分のことを後回しにできる。ついでに彼らの成功体験の喜びを、さも自分が得たかのようにかすめ取ることだってできる。だから対象はなんだっていいのだ、自分が乗り移るきっかけさえあれば。
チェーホフの戯曲『ワーニャ伯父さん』でいまいち分からなかったのが、ワーニャのセレブリャコーフへの思い入れだった。セレブリャコーフははじめから(観客の知りうる範囲では)偏屈な爺さんだし、エレーナの夫でもあるし、ワーニャは彼の生活と自分の生活を比べて、彼のことがとうに嫌いになっていても仕方がないと思うのだ。しかしワーニャは長い間仕送りをし、家系の誇りだとも思っていたように描かれていて、それが不思議でならなかった。
ワーニャは私と同じように、セレブリャコーフに対して対峙するのではなく、ずっと(逃避先として)彼に乗り移っていたのか、と思った。だから、セレブリャコーフが「現実」として存在することそのものがワーニャにとってつらいのだ。
自分がエレーナを愛しているのではなく、エレーナと愛し合っていないと自分の夢想に辻褄が合わないのだ。そして最終的に、現実のセレブリャコーフがワーニャの夢想を打ち砕く。
 
ワーニャはようやく、自分の現実を自分のこととして生きなければいけないことを理解する。
果てしない日々を生きていきましょうね、とソーニャは言う。
 
私も自分の現実を自分のこととして、生きなればならないとは思う。
けれど、100年前のロシアの田舎とは違い、今はあらゆる乗り移り先が用意されている。エンターテイメントが、スポーツが、インターネットが、宗教が。購入したPCのメーカーにだって乗り移ることができる。うまく乗りこなせばいいのだろうけれど、今の私にはとてもとても難しい。